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むなかた遺跡マップ
あかましゅくあと
赤間宿跡
  • 特徴
  • 所在地:福岡県宗像市赤間
  • 時代:江戸時代~明治時代
  • 内容:宿場

 赤間宿は、参勤交代などのため、慶長8(1603)年頃に小倉-福岡-唐津を結ぶ唐津街道沿いに福岡藩主黒田長政が整備した宿場です。 宿場の長さは約500メートルで、南北に傾斜した街筋には町茶屋、問屋場、旅籠、商家が立ち並び、街道に面して往来する人々の喉を潤すため7つの辻井戸が掘られていました。 また、群内村役人の集会所である群屋や、宿場役人の下代屋敷、福岡藩御用米蔵などの公的施設も設けられ、現在の城山中学校グラウンドの場所には藩主の休憩、 宿泊のための御茶屋が置かれました。当時の赤間宿は、間口が狭く奥行きが長い短冊形の町屋が軒を連ね、家具屋や呉服屋、造り酒屋、鍛治屋、旅館があり「赤間に行けばなんでも揃う」と言われ、 峠を越えて鞍手郡や岡垣からも買い物客が訪れ賑わっていました。この宿場の賑わいは、明治23(1890)年に九州鉄道(現在の鹿児島本線)が開通するまで続きました。

宿場のおもかげ

 現在でも赤間の旧街道筋に行けば、当時の宿場のおもかげを随所に見ることができます。隙間なく並んだ、奥行きのある白壁の町屋をはじめ、地元で「祇園さん」と呼ばれる須賀神社、 辻井戸、「構口」という地名などです。宿場の中ほどにある勝屋酒造(1790年創業)の店舗兼主屋と煙突は、明治初期から中期の建築とされ、国の登録有形文化財(建造物)です。 このように、当時のおもかげを留める赤間宿跡に立てば、唐津街道を往来する人々で賑わった活気ある宿場の雰囲気を感じることができます。 

街道のおもかげを残す明治時代の建造物
歴史上の著名人も訪れた

 交通の要衝、赤間宿には、多くの歴史上の著名人も訪れました。全国津々浦々を渡り歩き、精密な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬もその一人です。 伊能忠敬の「測量日記」には、赤間宿の様子を「町並人家続き、家百五十六軒」と記しています。また、安永9(1780)年に奥村玉蘭が描いた『筑前名所図会』の「赤間駅の図」では、 家屋がびっしり並んだ赤間宿の様子を見ることができます。

 幕末には、激変する時流の中で、尊皇攘夷派として京都を追われた、三条実美ら5人の公卿が御茶屋に、1か月あまり滞在し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)などもここを訪れたといわれています。

赤間駅の図
発掘調査で分かったこと

 これまで行った発掘調査の成果から、赤間宿における人々の暮らしぶりの一部を知ることができます。

 調査では、多くの陶磁器をはじめ、屋号の入った徳利、口紅を入れた紅皿、銭貨などが出土しました。陶磁器類は、碗や皿などの日用品が中心で、普段の暮らしは質素なものだったことが分かります。

 徳利や紅皿は、質素な暮らしの中にも楽しみがあったことが分かる遺物で、もしかすると調査を行った場所に暮らしていたのは、大酒飮みの旦那さんとオシャレなおかみさんだったかもしれません。 江戸時代の早い時期から作られた寛永通宝などの出土銭貨は、赤間宿が物流の拠点として、金品のやりとりが多く行われたことの証ともいえます。

発掘調査で出土した遺物
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