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歴史・文化

宗像に縁のある歴史上の人物たちを紹介します。

むなかた人物伝

胸形君徳善
(むなかたのきみとくぜん)

胸形君徳善は、七世紀前半ごろの宗像君一族を代表する族長王クラスの人物であったと考えられています。

天武天皇(大海人皇子-おおあまのみこ)の妻である尼子娘は、徳善の子で、この婚姻は胸形君とヤマト王権との関係強化を象徴しています。

▲長屋王関係系譜

尼子娘
(あまこのいらつめ)

胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の子である尼子娘は、天武天皇と結婚し、高市皇子(たけちのみこ)の母となります。

尼子娘の名は、アマコ=海人の子の意味で、宗像氏の娘にふさわしい名と云えます。

▲長屋王関係系譜

高市皇子
(たけちのみこ)

天武天皇の皇子。母親は尼子娘(あまこのいらつめ)。

壬申の乱(672年)には、天武天皇に従って功がありました。皇太子草壁皇子(くさかべのみこ)の死後、持統天皇が即位すると太政大臣となり、事実上の皇太子に等しい地位にあって、天皇の政治を助け、藤原京の建設にも功績がありました。

また、高市皇子は歌人としても知られ、『万葉集』にも歌が採録されています。

▲長屋王関係系譜

長屋王
(ながやおう)

高市皇子(たけちのみこ)の子で、天武天皇の孫。胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)のひ孫にあたります。

従三位、ついで大納言となり、元明、元正両朝の執政者であった藤原不比等(ふじわらのふひと)が死ぬと、その後任として右大臣に任じられ、太政官の首班となりました。

聖武天皇が即位すると左大臣に進み、実権を握りましたが、長屋王の変(729年)では、その勢力をおそれた藤原氏の陰謀にかかり、皇位をねらっていると密告され、邸を軍兵に囲まれ自害しました。

▲長屋王関係系譜

菅原道真
(すがわらみちざね)

平安初期の学者・政治家。

菅原氏は代々学問に従事する家系で、道真も儒学を学び文章生(もんじょうせい)から文章博士(もんじょうはかせ)となりました。

宇多天皇は藤原氏と血縁関係がなく、藤原氏の勢力をおさえて天皇親政を実現しようと道真を登用しました。

道真は、蔵人頭(くろうどのかみ)から参議・大納言と昇進し、学界出身の大臣として異例の出世をとげました。
また、その間、遣唐使の廃止(894年)を献言しました。

次の醍醐天皇(だいごてんのう)にも重用されましたが、彼のめざましい昇進は藤原氏と一部貴族層の反感を買い、901年、藤原時平らの策謀で、九州の太宰府に左遷されました。

二年後、道真はその地で生涯を閉じました。

遺骸は大宰府の東北の地に埋葬され、太宰府天満宮が建てられました。

▲太宰府天満宮の社殿

宗像氏能
(むなかたうじよし)

藤原忠平の孫の関白頼忠が太政大臣に在任していた天元2年(979)、初代の宗像大宮司職に就いたのが、正六位上宗形朝臣氏能でした。

大宮司を任命するには、宗像氏の中から氏人の推薦によって、宗像社や宗像氏の先例故事に詳しく、才能のある人物をえらび、まず宗像氏の氏長者とし、その太政官符で大宮司職に任命する手続きをとりました

大宮司は宗像社の「一事以上」つまりすべての支配権を握るもので、かつての神主のもつ祭祀権と、宮司のもつ人事・財産権との、宗像社にかかるすべての権限を併せ持っていました。

色定法師
(しきじょうほうし)

色定法師は、宗像神社の社僧兼祐の子で、法華経四功徳の文を読んで感得し、父母の菩提を弔うため一切経(いっさいきょう)の書経を発願しました。

文治3(1187)年4月1日29才で書経を始め、42年間を費して安貞2(1228)年70才で五○四八巻全部を写し、これを宗像大社に献納しました。仁治3(1242)年11月6日83才で入滅したと伝えられています。

一切経書経には、伝教大師、僧天海、鉄眼等の例がありますが、これらは多くの資力・人力を動員してなされたもので、色定法師のように単身この事業を成し遂げたことは驚異的なことです。

なお、現在は宗像大社神宝館に収蔵され、昭和40年以来の修理事業が行われています。

色定法師一筆一切経(国指定 書跡)

菊姫
(きくひめ)

菊姫は、第79代宗像大宮司、宗像氏男(むなかたうじお)の妻で、氏貞の姉にあたります。

天文20(1551)年に起きた宗像大宮司家のお家騒動で、宗像氏貞の家臣に暗殺されます。

殺害された菊姫らは怨霊(おんりょう)となり、氏貞を崇り始めたため、菊姫らのいた山田の地に増福院を建て、霊を鎮めたと云われています。

山田地蔵尊

宗像氏貞
(むなかたうじさだ)

宗像氏貞は、宗像社第76・78代大宮司を歴任した黒川隆尚(宗像正氏)の実子で、母は陶晴賢(すえはるたか)の姪にあたります。

天文20(1551)年、大内義隆の家臣、陶晴賢が謀反(むほん)を起こします。義隆は自害し、その側近として仕えていた黒川隆像(宗像氏男)も行動をともにします。

時を同じくして、宗像一族に家督争いが生じ、氏貞は晴賢の支援を得て、宗像大宮司の職に就きます。

その後、一族内で再び社職をめぐる争いが生じ、大島へ退去します。

その半年後、毛利氏の援助を得て挙兵し、宗像地方を大友氏の支配から奪い返しました。

しかし、毛利氏が九州を撤退すると、再び大友氏に服属し、宗像社辺津宮の社殿を再興するなど領内の振興に尽力しました。

天正14(1586)年3月、氏貞は42年の波乱に満ちた生涯を閉じました。

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