胸形君徳善は、七世紀前半ごろの宗像君一族を代表する族長王クラスの人物であったと考えられています。
天武天皇(大海人皇子-おおあまのみこ)の妻である尼子娘は、徳善の子で、この婚姻は胸形君とヤマト王権との関係強化を象徴しています。
平安初期の学者・政治家。
菅原氏は代々学問に従事する家系で、道真も儒学を学び文章生(もんじょうせい)から文章博士(もんじょうはかせ)となりました。
宇多天皇は藤原氏と血縁関係がなく、藤原氏の勢力をおさえて天皇親政を実現しようと道真を登用しました。
道真は、蔵人頭(くろうどのかみ)から参議・大納言と昇進し、学界出身の大臣として異例の出世をとげました。
また、その間、遣唐使の廃止(894年)を献言しました。
次の醍醐天皇(だいごてんのう)にも重用されましたが、彼のめざましい昇進は藤原氏と一部貴族層の反感を買い、901年、藤原時平らの策謀で、九州の太宰府に左遷されました。
二年後、道真はその地で生涯を閉じました。
遺骸は大宰府の東北の地に埋葬され、太宰府天満宮が建てられました。
藤原忠平の孫の関白頼忠が太政大臣に在任していた天元2年(979)、初代の宗像大宮司職に就いたのが、正六位上宗形朝臣氏能でした。
大宮司を任命するには、宗像氏の中から氏人の推薦によって、宗像社や宗像氏の先例故事に詳しく、才能のある人物をえらび、まず宗像氏の氏長者とし、その太政官符で大宮司職に任命する手続きをとりました
大宮司は宗像社の「一事以上」つまりすべての支配権を握るもので、かつての神主のもつ祭祀権と、宮司のもつ人事・財産権との、宗像社にかかるすべての権限を併せ持っていました。
色定法師は、宗像神社の社僧兼祐の子で、法華経四功徳の文を読んで感得し、父母の菩提を弔うため一切経(いっさいきょう)の書経を発願しました。
文治3(1187)年4月1日29才で書経を始め、42年間を費して安貞2(1228)年70才で五○四八巻全部を写し、これを宗像大社に献納しました。仁治3(1242)年11月6日83才で入滅したと伝えられています。
一切経書経には、伝教大師、僧天海、鉄眼等の例がありますが、これらは多くの資力・人力を動員してなされたもので、色定法師のように単身この事業を成し遂げたことは驚異的なことです。
なお、現在は宗像大社神宝館に収蔵され、昭和40年以来の修理事業が行われています。
宗像氏貞は、宗像社第76・78代大宮司を歴任した黒川隆尚(宗像正氏)の実子で、母は陶晴賢(すえはるたか)の姪にあたります。
天文20(1551)年、大内義隆の家臣、陶晴賢が謀反(むほん)を起こします。義隆は自害し、その側近として仕えていた黒川隆像(宗像氏男)も行動をともにします。
時を同じくして、宗像一族に家督争いが生じ、氏貞は晴賢の支援を得て、宗像大宮司の職に就きます。
その後、一族内で再び社職をめぐる争いが生じ、大島へ退去します。
その半年後、毛利氏の援助を得て挙兵し、宗像地方を大友氏の支配から奪い返しました。
しかし、毛利氏が九州を撤退すると、再び大友氏に服属し、宗像社辺津宮の社殿を再興するなど領内の振興に尽力しました。
天正14(1586)年3月、氏貞は42年の波乱に満ちた生涯を閉じました。