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宗像大社沖津宮
宗像大社沖津宮は、宗像三女神の田心姫神をまつる宗像大社三宮の一つです。
島内には4世紀後半から9世紀末の約500年間にわたりおこなわれた古代祭祀遺跡があります。
また、沖ノ島から約1km沖にある3つの岩礁の小屋島、御門柱、天狗岩は鳥居の役割を果たしてきました。
沖ノ島と3つの岩礁、さらには大島の沖津宮遙拝所をあわせ、宗像大社沖津宮といいます。
沖ノ島での祭祀
1.沖ノ島への人の往来と神への祈り
沖ノ島は、縄文時代前期から人の往来を示す土器や石器が出土しています。その後も縄文時代中期と晩期の時期を示す土器やニホンアシカの骨などが出土していることから、漁労を中心に一時的な人の滞在があったと考えられています。弥生時代に入ると土器の出土量は、前期より中期、中期より後期と時代が新しくなるにつれて増えていきます。なかでも朝鮮系無紋土器なども認められることから、すでに、倭(日本)と朝鮮半島との人の往来が多くなっていたことが伺えます。
沖ノ島で本格的な祭祀が始まるのは、古墳時代に入ってからです。朝鮮半島や中国大陸から新たな技術や文化、文物を取り入れるうえで、海に囲まれた日本は船での航海が必須でした。そのため航海安全や対外交流の成就を願った祭祀が、ヤマト王権と地元豪族宗像氏によって執り行われたと考えられています。
2.沖ノ島での祭祀
沖ノ島では、古墳時代の4世紀後半から祭祀が始まり、9世紀末まで約500年間、祭祀で使われ神へ捧げられた奉献品の出土場所が大きく4段階に変化することが確認されています。10世紀以降は、さらに聖なる場所として人の往来がほとんど認められなくなり、代わって九州本土の現辺津宮で第一宮として沖津宮のお祀りが行われるようになりました。13世紀には「御長手神事」が執り行われ、年4回(春夏秋冬)日を定めず、沖ノ島へ渡島し、神を宿らせた竹を持って帰る神事が行われていました。現在の「みあれ祭」の海上神幸で船に立てられた竹を御長手と呼んでいます。
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沖ノ島祭祀遺跡のなかでも標高の高い岩の上から奉献品が出土します。奉献品は三角縁神獣鏡や方格規矩鏡、内行花文鏡、き鳳鏡などあらゆる種類の鏡や鉄剣、鉄刀、石製腕輪、勾玉、管玉など古墳時代の王墓に副葬されるものと同等のものが使われていました。しかも祭祀が終わってから千数百年そのままの状態で出土しました。
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岩の上で見つかっていた奉献品は、この時期から岩の陰になるような場所から見つかるようになり、沖ノ島祭祀遺跡の中で最も遺跡数が増えます。朝鮮半島からもたらされたと考えられる金製指輪や金銅製(銅に金メッキを施したもの)馬具、現在のイランのカスピ海沿岸からシルクロードを経てもたらされたカットグラス碗などが見つかっており、大陸との交流が盛んに行われていたことが分かります。
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半分岩陰で半分日が差すような場所から奉献品が出土します。この時期は、次の露天祭祀へと移行する過渡期であり遺跡数は少ないのですが、特に有名な5号遺跡からは、金銅製龍頭や唐三彩など中国大陸由来の文物や、雛形金銅製五弦琴、雛形金銅製紡織具など伊勢神宮にも通じる日本古来の神道祭具などが認められます。
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大きな岩場から離れ、急峻な沖ノ島では珍しい平坦なところから大量の奉献品が出土しています。特に特徴的な滑石製石製品である人形、馬形、舟形のセット、壺の胴部に丸い穴を複数開けた有孔土器は、ほぼ同時期に始まる大島中津宮の御嶽山祭祀遺跡や九州本土辺津宮の下高宮祭祀遺跡からも出土しており、宗像地域特有の奉献品です。
このほかにも、唐三彩を真似て作られた日本製の奈良三彩や初鋳が西暦818年を示す富寿神宝なども出土しています。