- 特徴
- 所在地:福岡県宗像市上八
- 時代:縄文時代後期(紀元前2000年頃)
- 内容:貝塚
- 指定日:1987(昭和62)年2月1日
鐘崎貝塚は、1932(昭和7)年に郷土史家で旧宗像高等女学校に赴任していた田中幸夫が発見しました。 4年後の1936(昭和11)年に学術雑誌上で発表し、九州で初めて出土した磨消縄文土器は考古学界で注目されました。
貝塚とは、古代の人々が捨てた貝殻などが堆積した遺跡のことです。鐘崎貝塚は、稲作がまだ普及する前、 漁ろうや食物採集で人々が生活を営んでいた縄文時代後期の遺跡です。厚さ30~90cmの貝層からアサリ、アカガイ、カキ、サザエなどの海生貝類を主として、 シジミ、ニナなどの淡水生貝類、猪や鹿、魚、島類の骨が出土しています。また、石器類や土器類も出土しており、当時の人々の暮らしの一部を知ることができます。
縄文土器とは、表面に縄目の文様を施した縄文時代の土器です。鐘崎貝塚から出土した縄文土器は、磨消縄文土器といい、
縄目を施した土器の表面を線でかたどって区画し、その内側か外儷を磨り消した文様を持っています。
鐘崎貝塚で出土した磨消縄文土器は、考古学者の三森定男が「鐘ガ崎式土器」を設定し、縄文時代後期に位置づけたことで、北部九州における標式土器(※)となりました。
(※)遺跡や遺物のことを知るとき、年代などを決める基準となる土器
鐘畸貝塚は、過去3回の発掘調査が実施されています。学術雑誌で初めて鐘崎貝塚が発表された1936(昭和11)年、 田中幸夫は九州帝国大学教授の鏡山猛とともに発掘調査を実施しました。1952(昭和27)年、郷土史家の名和羊一郎らにより鹿角製笄2点を頭部に装着した老年女性人骨一体が発見されました。 1963(昭和38)年には人骨4体が発見され、出土遺物にはサメ歯製耳飾が含まれていたとされています。
北部九州における縄文時代後期の標式土器が出土した鐘崎貝塚ですが、過去の調査内容に関する具体的記録が伝わっておらず、遺跡の具体像が解明できていません。 そのため、再度の発掘調査を実施し、遺跡の具体像を解明することが今後の課題といえるでしょう。また、同じ砂丘にあるさつき松原遺跡や、沖ノ島にも縄文時代の人びとの痕跡が残るため、 これらの遺跡との関連性も注目されます。