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自然

寺社仏閣

1.厳島神社(慈島宮)
  •  正平二十三(1368)年宗像宮年中行事に「小嶋厳島社」と載っています。
    沖ノ島から安芸の宮島に神を勧請する途中大風にあい、仮屋を建て大風の止むのを待ちました。その後、仮屋に宗像三神を勧請し祀ったと言い伝わっています。
     祭神は、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命の宗像三女神です。

    神社の主な行事(現在は行われていないものもあります)
    のりぞめ:1月1日の午前2時に1番太鼓が鳴らされ続いて3時に2番太鼓、5時に3番太鼓が鳴らされています。3番太鼓が鳴らされると氏子が集まり酒宴が催されます。2日目は浜に引き上げた漁船に鏡餅やお御供をあげ、船の安全、航海の安全などを祈願します。
    夏祈祷:6月の第2土曜日に梅雨明けの悪疫予防、五穀豊穣を祈り、お札を海岸や道端に立てます。
    地島山笠(祇園祭):7月15日に泊区と豊岡区が当番制で実施され、山笠の台は船に載せられ移動します。
    宮座:例年10月に行われます。

2.西光寺
  • 明徳元(1390)年(一説には応永元(1394)年)に一行寺第三世源蓮社満誉行覚和尚が開基し、海雲山福聚院西光寺と称されます。浄土宗総本山知恩寺派の寺院であり、本尊は阿弥陀如来、左右に勢至菩薩と観世音菩薩の二脇士像を配置し、さらにその両端に善導大師と法然上人像も安置されています。
     創建以来3回(文化初(1804)年火災、文化3(1806)年再建・文政8(1825)年再建・明治43(1910)年火災、大正3(1914)年再建)に渡り火災に合い、過去の歴史を知る資料が残されていません。

     1回目:正徳元(1711)年7代将軍徳川家宣の襲職により使節団を派遣しました。
     8月26日相島を出港するが波風が高くなり、地島に避難しました。天候が回復した29日に赤間関(下関)へ向けて出港しました。
     2回目:享保4(1719)年8代将軍徳川吉宗の襲職により使節団を派遣しました。
     8月10日の早朝に相島を出港しましたが、地島、鐘崎辺りで東風が強くなり相島へ戻ろうとしたものの、難しく地島に停泊しました。使節団含め対馬藩1300人以上、その内通信使三使(正使・副使・従事官)は、西光寺に宿泊し、残りは船泊となりました。8月18日にようやく風がやみ地島を出港しました。

3.西光寺別院

 もとは、長徳寺とよばれ、浄土宗総本山知恩寺派の寺院であり、明徳元(1390)年に満誉と言僧の開基が開基した(続風土記拾遺)といいます。明治3(1870)年運営困難に陥り、1つの島に2つの寺は必要ないとの考えもあり、浪浦山薬師院長徳寺の名義を平戸大島の寺に売り、以後、西光寺別院として西光寺が行事を行っています。
 現在、本尊阿弥陀仏が安置され、両脇に日光・月光菩薩と薬師如来、十二神将が置かれています。

4.牧神社
  •  泊の厳島神社が創建される以前は、地島の氏神であったとされています。豊岡には「野尾瀬」と「おとびら」に牧場があったとされ、牧場内に悪霊などが入り込まないように入口に祀られたといいます。  祭神は猿田彦命。
     神社の主な行事
     のりぞめ:1月2日に牧神社で浜に引き上げた漁船をまとめて祝詞を挙げ、酒宴が催されています。

歴史

史跡

5.殿様波止
  •  黒田長政の母君が信仰する観音様から「地島に波止を築くべし」というお告げを聞き、そのことを伝えられた黒田公は、地島近海を航行する船に対し、波止を築くための石を寄付するよう命じ泊に波止を築いたといわれています。その後破損し、元和4(1618)年黒田長政によって補修されました。波止の長さ150間(約270m)幅18間(約30m)余り(続風土記拾遺)。波止の南端に船人のための灯籠堂があった(続風土記拾遺)とされています。

6.殿様井戸

 黒田公が参勤交代の際に地島に立ち寄り、この井戸を使用されたとする説と家臣に命じ井戸を作らせたとする説があります。

地名

7.須加崎(須賀崎)の砂洲
  •  須加とは、浅瀬の意味があり、地島と鐘崎の間には浅瀬が続いています。この海域は、地島曽根とも呼ばれ、干満の差が大きい時は激流に見舞われることから船舶航行の難所でもありました。
     また、勝島と同様、砂洲は須加崎から南東方向に発達しています。

8.お猿さま(猿毛山)

 一匹の猿が鐘崎からやっとの思いで海を渡り、この地島の浜にたどり着いたところ、島の人々が猿を見つけ捕まえようとしたので、猿は全身の力を振り絞って山に逃げ登り、そして息絶えてしまいました。人々はその姿を哀れに思い、いつしかこの山をお猿さま(猿毛山)と呼ばれるようになりました。

9.小村浜(菰浦)

 ここは小さな入江ですが、非常に住みやすいところであり、以前小さな集落があったのでこの名があります。

10.桜崎

 以前ここは、野生の桜の木が茂り、春には、美しい花を咲かせていたのでこの名があります。

11.唐船

 ここは遠見山の麓に位置し、船の監視所も設けられていて遠見番所の一部として活動していたそうです。

12.遠見山(標高186.8m)
  • 幕府の命を受けた黒田藩が玄界灘一帯の沿岸警備のために、元和元(1615)年に遠見番所を設置しました。
     遠見番所があった場所と思われる石垣の痕跡が今も見ることができ、この近くには沖ノ島展望台もあります。

13.猫瀬

 猫の姿に大変よく似ている岩なのでこの名があります。

14.磯辺

 つまり磯に面したところなのでこの名があります。

15.赤瀬

 この岩は辺りの岩よりも一際目立って赤い色をしているので、人々は赤瀬と呼んでいます。

16.白浜

 この集落の海岸には、白い砂浜が続いているので、この名があります。

17.豊岡
  •  この集落が白浜と呼ばれていたころは、住む人も少なく、あまり栄えていませんでした。そこで人々は、この集落が豊かな岡となるようにという願いを込めて、豊岡と名付けました。

18.甚五郎ヶ下

 豊岡集落の甚五郎という人が漁をしていたところ、誤って波にのまれて死んでしまいました。それからここを甚五郎ヶ下と呼ぶようになりました。

19.西の浦

 地島の丁度西側にある浜辺なので、この名があります。

20.ざらり

 ここは石がゴロゴロしている浜で、見た目がザラっとしているので、この名があります。また、雨が降った時には、この浜の小石が丁度小豆を洗う時のようなザラリザラリと音を立てるのでこの名があります。

21.とっくり瀬

 岩の形が、とっくりに似ていたのでこの名があります。しかし、海水の浸食や風化作用によって岩は変形し、昔の姿を偲ぶことは出来ません。

22.イガイバイ

 この岩はイガイバイ(カラス貝)がたくさんくっついているので、この名があります。このイガイバイは海中にあって、その姿が見えにくい為、以前ここを通る船がこの岩に乗り上げ、事故を起こしたことも度々あったそうです。

23.おはつが谷

 おはつという人が、つわを取りに行き、この谷の渕まで体をのり出し、手を伸ばして採っていたところ、足を踏み外して谷底へ真っ逆さまに転落して死んでしまいました。
 そこからこの谷をおはつがたにと呼ぶようになりました。

24.観音岩(観音洞)

 この洞門の中に観音様が祭られているので、この名があります。

25.指洞門(五つ洞門)

 ここは丁度人が指で穴をあけたように、五つの洞門が並んでいるのでこの名があります。

26.池瀬

 この岩は真ん中に窪みがあり、いつもその窪みに海水が満ちていて、丁度池のように見えるため、この岩を池瀬と呼んでいます。

27.さざえ瀬

 岩の形がさざえのように見えるため、この名があります。

28.納屋

 島の東側で漁をしているとき、急に天候が悪くなった場合には、ここの浜に船をつけて、人々は小屋で天候の良くなるのを待ったり、山を越えて集落に帰ったりしていました。このことから、小屋のある浜辺一帯を納屋と呼ぶようになりました。

29.祇園山(標高150m)
  •  山頂に祇園様の祠が祀られていることからこの名が付きました。以前、7月14日には、祇園祭が行われ、若者たちが山笠を担いで山へ登り、15日にはその山笠を下ろしていたといいます。
     城址、白浜の上高山にあり、城腰と云います。城址あり、城主詳ならず(続風土記拾遺)と記されています。

参考文献:玄海町誌 玄海町町誌編纂委員会 玄海町 1985
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