自然
大島の寺社仏閣
宗像大社中津宮
宗像大社中津宮は、宗像三女神の瑞津姫神をまつる宗像大社三宮の一つです。
大島の南西部に位置しており、七夕発祥の地ともいわれています。
社殿は14世紀後半ごろに成立した『宗像大菩薩御縁起』において大島に23の中津宮末社を確認できることから、少なくとも鎌倉時代末頃には建てられていたと推測できます。弘治2年(1556)「大島第二宮年中御神事次第」では、御嶽神社を「上宮」、中津宮を「本社」と記しており、少なくとも16世紀には、御嶽神社と中津宮社殿が並立する現在のような境内が形成されていました。
三間社流造り、梁間2間、素木造り、杮葺、正面に1間の向拝をもち、正面は三間とも蔀戸、両側面は右の妻引戸のほか背面も板壁で四方に勾欄付きの廻り板縁があります。
宗像神社中津宮本殿造営者は大宮司氏貞とされ、平成9年(1997)の解体修理に伴う調査によって承応4年(1655)の年紀をもつ墨書が発見されたことから、この時期に造営された可能性が高いと考えられています。
-
鰹木は通常は丸いものが複数のっていますが、中津宮では円形のものと四角形のものとが各々3本ずつ束ねてあります。鰹木は陰と陽を表し、3つ束ねたのは宗像三女神を表していると言われています。
これは県内には例がなく、京都の吉田神社の影響が考えられます。
-
『御嶽の下本社の坤(ひつじさる)の方に古き井あり。其水きはめて淸冽なり。御手洗の井といふ。此下天の川なり。故に此井を社家には神代の卷に見えたる天眞名井に比して、敬慎すと云。』「筑前国続風土記」より
(御嶽山のふもと、本殿の南西の方に湧き水がある。その水は極めて清く冷たい。 神を拝する前に身を清める井戸である。この下が天の川である。よってこの泉を神職の一族は神話時代の高天原の井戸の名「天真名井」をとって敬っているという。)
『筑前国続風土記』(1703)巻16宗像郡上大島の条に「社前に天の川流。この川御嶽の下よりいつ。その川のはた左右にわかれて、牽牛・織女二星の小社あり。川をへたてたり」と記されており、その記載通り、現在も中津宮に向かい右手に牽牛社が、左手に織女社が天の川を隔てて位置しています。牽牛・織女社は縁結びや芸事上達としての信仰を集めています。
宗像大社沖津宮遙拝所
大島の北側沿岸部の岩瀬地区に位置する沖津宮遙拝所は本殿を持たず、御神体である沖ノ島を直接拝むために拝殿のみが建てられたもので、宗像神社境内
のひとつに指定されています。
『宗像神社史』によると、江戸時代に沖津宮を奉斎する社家の家系である一ノ甲斐河野氏が常時の祭祀を執り行うため、屋敷を構える大島に沖津宮遙拝所を設けたことがその起源であるとされています。
元禄14年(1701)の筑前図に記された「奥津宮鳥居」が初見で、宝永2年(1705)の『筑陽記』にも、岩瀬の地から沖ノ島を遥拝していたことが記されています。寛延3年(1750)銘の石碑が入口に建ててあり、18世紀ころには、遥拝所として機能していました。現在、毎年春・秋の沖津宮大祭と沖津宮現地大祭では、社殿の扉を開けて神事が行われています。
かつて大島の漁師の妻は沖ノ島で漁をする夫の無事を願い、沖津宮遥拝所から祈りを捧げていました。
昭和8年(1933)に再建された現在の社殿は氏子である大島の人々の奉仕によって完成したものです。
御嶽神社
御嶽山山頂に位置する御嶽神社は、参道から山頂までが宗像大社の境内地として国の史跡に指定されています。
ここには、中津宮の湍津姫神の荒魂あらみたま(荒々しい側面)が祀られ、麓の中津宮と一体となり信仰の対象となっています。
宗像三女神の降臨
湍津姫(タギツヒメ)神の起源
宗像三女神は、沖ノ島で航海の安全を願った信仰を起源としています。
田心姫(タゴリヒメ・タギリヒメ)神は、航海の安全を左右する海の「霧」に由来します。湍津姫(タギツヒメ)神の「タギ」は「たぎる」(「滝」と同源)で、「海の潮流が速く渦巻く様子」に由来すると考えられます。市杵島姫(イチキシマヒメ・イツキシマヒメ)神は、「神いつく島」、「神をまつる島」を意味しています。
宗像三女神神話
日本最古の歴史書『古事記』(712年成立)、『日本書紀』(720年成立)の神話によれば、宗像三女神は皇室の祖神とされるアマテラスとその弟スサノヲの誓約(うけい)(成否の古い)によって生まれたとされています。
黄泉の国へ行くように命じられたスサノヲは、アマテラスが治める高天原へ挨拶に向かいましたが、アマテラスは国を奪いに来たと疑います。スサノヲは、身の潔白を証明するため、誓約を提案しました。そこでアマテラスは、スサノヲの剣を三つに折り、天の真名井(あまのまない)ですすいで噛み砕き、口から吹き出しました。その息吹から生まれたのが宗像三女神です。アマテラスは三女神に、大事な海の道「海北道中」を守るよう命じ、田心姫神は沖津宮(遠瀛)に、湍津姫神は中津宮(中瀛)に、市杵島姫神は辺津宮(海浜)にそれぞれ降臨します。
これが日本列島と朝鮮半島、大陸とをつないだ海の守り神、宗像三女神の降臨神話です。
自然崇拝から始まった中津宮
湍津姫(タギツヒメ)神の起源
御嶽山山頂の御嶽山祭祀遺跡は、『古事記』や『日本書紀』に記された湍津姫神を祀る中津宮のはじまりを証明します。
その後、御嶽山の麓に社殿も建てられ、16世紀(戦国時代から安土桃山時代)には、御嶽山山頂の御嶽神社を上宮とし、麓の本殿が本社として位慣付けられていました。現在もなお、御嶽山山頂、御嶽山参道、麓の社殿周辺が一体とした中津宮境内を構成しており、本殿から石段を下ると鳥居の向こうに海が広がります。
沖ノ島祭祀と御嶽山祭祀
三女神に対応する三つの祭祀遺跡
7世紀後半(飛鳥時代)には、沖ノ島と同様の露天祭祀が、大島と九州本土でも始まります。
その場所は、大島で最も高い御嶽山の山頂(御嶽山祭祀遺跡)、九州本土の辺津宮境内で当時入海に面していた宗像山の中腹(下高宮祭祀遺跡)です。3カ所の祭祀遺跡は、いずれも海への眺望が良い平坦地で、共通する独特の奉献品が多く発見されています。
この3カ所の祭祀遺跡が存在する考古学的事実は、『古事記』『日本書紀』に宗像氏が宗像三女神を沖津宮、中津宮、辺津宮で祀ると書かれていることと一致しており、3つの宮から成る宗像大社と宗像三女神信仰が古代から今に続いていることが分かります。
御嶽山祭祀の起り
663年白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍によって、日本の友好国である百済が滅ぼされ、遣唐使船は朝鮮半島経由の北路から五島列島を通る南路へと航路が大きく変わりました。このような対外情勢の変化が、沖ノ島だけでなく、大島御嶽山や九州本土の下高宮でも祭祀が行われた要因の1つと考えられています。
禁忌で守られた島
厳しく守られた禁忌
宗像の人々は、沖ノ島とその周辺海域を神域として禁忌を産み出しました。沖ノ島祭祀の痕跡が手つかずのまま残されたのは、「一木一草一石たりとも持ち出してはならない」、「島で見聞きしたことは一切口外してはならない(不言様・おいわずさま)」とする禁忌を厳格に守ってきたことが大きな理由と言えるでしょう。大島の漁師は、昭和40年(1965)頃まで漁で沖ノ島に寝泊まりすることがありましたが、自宅に帰って妻や子どもにさえ沖ノ島のことを話すことはなかったのです。
禁忌を破った長政公
江戸時代初め、筑前の城主として入城した黒田長政は、どこからか沖ノ島にお宝があるという話を聞き、神職や僧侶に取りに行くよう命じたのですが、恐れ多いということで断られ、当時いた畏敬の念をもたないバテレンに取りに行かせました。
持ち帰ったお宝を福岡城の蔵のなかに納めていたところ、光を放ち、建物が揺れるなど大変な祟りがあり、すぐに沖ノ島へ戻させました。(貝原益軒『筑前国諸社縁起 澳津宮御事略』より)
価値を知って守る
宗像市赤間出身の出光興産創業者である出光佐三氏は、故郷の荒廃してしまった宗像神社を立て直すため自ら会長として「宗像神社復興期盛会」を立ち上げました。はじめ、神社史の編さんから取り掛かりましたが、真に神社の歴史を知るためには沖ノ島の歴史を解明する必要があるとして、昭和29年 (1954)から46年(1971)にかけて3次にわたる学術調査が実施され、その結果、世界が認める考古学的な価値が世に知られることとなりました。日本が高度経済成長期を迎え、玄界灘を行き来する性能のよい船が増え、沖ノ島に避難港が建設されました。この調査は沖ノ島に近づくことが容易となることで祭祀遺跡の盗掘を未然に防ぐことも目的の一つだったとも言われています。
大島の歴史
遺跡
弥生時代の遺跡
旧石器時代、縄文時代の遺跡や遺物等は今のところ発見されていません。
弥生時代になるとロクドン遺跡や井ノ浦川流域の一帯から土器や石器が表採されています。2009年8月の大雨で県道沿いの法面から、大量の土器や石器が出土しました。中には楽浪系の土器や磨製石鏃などが、朝鮮半島との交流を示す資料も含まれます。
古瑣時代の遺跡
本土では、数多くの古墳が築かれますが、大島では古墳が確認されていません。
一方、井ノ浦川流域からは銀製指輪と銅製指輪が発見され、沖ノ島の金製指輪との関係が注目されます。また、学校周辺遺跡からも硬玉製の勾玉が出土しており、祭祀遺跡の可能性を示唆しています。
奈良時代以降の遺跡
沖ノ島と同様の祭祀遺跡が確認された御嶽山山頂の御嶽山祭祀遺跡は、『古事記』『日本書紀』に記される中津宮の成立を裏付ける考古遺跡です。大陸や朝鮮半島と日本列島とを結ぶ海路の安全を願う祭祀の痕跡を今に伝えています。
安昌院・大島城
安昌院
岩手県平泉でおきた前九年の合戦(l052~1062)に敗れ大島に流された安倍宗任(あべのむねとう)の旧邸宅で、弘長4年(1264)安倍宗任の子孫である尼妙任(あまみょうとう)によって創建されたと伝えられています。
天正18年(1590)の火災で焼失するまでは真言宗でしたが、江戸時代、田島にある曹洞宗の医王院に属しました。現在、木造薬師如来立像を御本尊とする島内唯一のお寺です。
大島城
永禄2年(1559)、豊後大友氏の援助を受けた宗像鎮氏(むなかたしげうじ)に攻められた大宮司氏貞(うじさだ)は、いったん大島へと逃げ込み、大島城に入りました。翌年には、大友勢から許斐城(このみじょう)(宗像市と福洋市の境にある山城)を奪還し、本土へ帰ることができました。氏貞にとって海を隔てた大島は最後の砦でした。
大島城はカクレ山城址と記され絵図に描かれており、現在も地元では「城山」(じょうやま)と呼ばれています。
瀛津島防人日記
大島にポルトガル人が到来
島原の乱をうけ、江戸幕府が異国船への警戒を強めていた、寛永20年(1643)5月12日、津和瀬(つわせ)の海岸に異国船が到来しました。ポルトガル人のヘイトロ(70歳)、アランス(51歳)、ジュセイノチア(40歳)、フランシスコカッソフラン(40歳)のバテレン(宣教師)4人のほか、イルマン(修道士)1人、キシタン(信徒)5人の計10人は、黒田藩の島守によって捕らえられ、島民に褒美が与えられました。また、ほぼ同じ頃、三浦洞窟にもヨハン神父が隠れ住んでいたと伝えられています。
青柳種信(たねのぶ)が見た大島
異国船の警戒のため、津和瀬や岩瀬に番所が設けられ、御嶽山山頂にも遠見番所が設置されました。沖ノ島にも見張役が派遣されましたが、沖ノ島に渡るためには大島で潔斎(けっさい)と潮待ちをする必要がありました。黒田藩士で学者の青柳種信は、寛政6年(1794)に沖ノ島の見張り番となった時の体験を『瀛津島防人日記(おきつしまさきもりにっき)』に書き残しています。
瀛津島防人日記より
寛政6年(1794)
3月30日
相島から大島に到着。鐘崎を眺め、「風まもり大島の辺に我が居れば鐘のみさきにしら浪たつも」と詠む。
4月1日
沖ノ島に渡るための慣習に従い、毎朝海に入ってみそぎをする。大島の人々はケガレを避けて慎み深く生きていると記す。
御嶽山に登って周囲を見渡す。東は長門の島々から山鹿、南は豊前国の英彦山、西南には竃門山、背振山脈、雷山、浮嶽、姫島、さらには肥前国の名護屋崎、平戸島、壱岐島、筑前国の小呂島が見え、北西には対馬も見えた。
沖ノ島ははじめは探しても見えなかったが、目が痛くなるほど探したら見つけることができた。あそこまで行くのかと皆不安になったが、種信は感動して島を遥拝し、「いつしかも見むとおもひしむなかたの沖つ御島を見るがともしさ」と詠んだ。その後中津宮に参り、沖ノ島への船路の安全を祈った。
4月3日
まだ沖ノ島へは出発できず、沖津宮をまつる一ノ甲斐の河野氏に招かれ、接待を受ける。
4月5日
波風は静かだが、追い風がないので出発できない。なかなか船出できないので日々山に登り、磯まで出ている。沖津宮遥拝所に参拝したらよく晴れわたっていて「沖ノ島」が見えた。
4月8日
追い風が吹いたが波が高く、船出せず。
4月9日
風波がいい具合だったので神官に占ってもらう。航海は長いので、船出と中程、島に着く頃の三つを占うが、中程の結果が少し悪かった。
着く頃の結果が良ければ船を出すので、ついに7艘の船で沖ノ島へと出発した。一ノ甲斐も恒例の祭りのため沖ノ島へ渡った。
大島の漁師達は沖ノ島と大島との間の海を「神中」と呼んでおり、「神中」に差しかかったときに神へお供えをした。
種信らの船は大海に浮かぶ木の葉のようだったが、乗組員達が神に気に入られたのか、いつになく静かな海を航海したという。
沖ノ島を眺めるとそれはもう神妙な雰囲気で、外国に行くようであった。そして遂に何事もなく沖ノ島の磯に着船した。
捕鯨・流人の島
鯨漁(くじらりょう)
江戸時代中期から明治時代にかけて、大島北東部の加代(かしろ)地区や地島には鯨の見張所が設けられていました。
当時の捕鯨の様子は「筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)」の挿図と共に「大海で鯨が往来する様子は、大道に牛馬が通るごとし」と記されています。
当時の捕鯨は食用の肉や稲につくイナゴの駆除に使う油を取ることが主な目的で、1頭当たりの値段は現在の価格で1千万円以上にもなったと言われています。
流刑の地
加代と長畑に、慶長12年(1607)から明治41年(1908)の約300年間にわたり流刑地がありました。
罪の重い者は長畑に、罪の比較的軽い者は加代に移され生活していました。流人は、隔離されていたわけではなく、島民の子どもたちに勉強を教えたり、捕鯨や漁の手伝いなどをしながら自給自足の生活を送っていました。
漁の歴史
沖ノ島の漁
大島の漁師は、沖ノ島の港整備が始まる昭和30年頃まで、長いときで半年間ほど小屋に住み込み(いっこみ)で漁を行っていました。沖ノ島での漁の仲間を「沖ノ島仲間」と呼び、捕れた魚は、島の冷蔵庫に一時保管し、本土から来る台船に魚を積んで市場に出荷していました。台船には本土からの手紙や食料などが持ち込まれ、漁師の生活の支えとなっていました。
沖ノ島の神様に守られ漁をしてきた大島の漁師は、沖ノ島への信仰心が篤く、畏敬の念と親しみを込めて、「沖ノ島様」「不言様(おいわずさま)」と呼びます。
大島の漁村
大島の漁村は、北からの季節風を避けるように島の南側の海岸沿いに形成されています。
土地が狭いため、漁師の屋敷は、石垣を築いて、主屋と漁具を収める網蔵(あみぐら)を構えています。浜には「アゲ」と呼ばれる竹製の網干し場を作り、船舶の係留(けいりゅう)や物干し場などにも利用していました。昭和30年代以降、徐々に網がナイロン製に替わって網を干す必要がなくなり、大島の海辺の風景であったアゲが姿を消していきました。
戦争
日露戦争
明治38年(1905)5月27日、沖ノ島の近海で起きた日本海海戦は、日本近代史上の大きな分岐点となりました。戦役を記念する烏居や戦役に出征していた人の氏名が刻まれた砲弾型の芳名、また、東郷平八郎ゆかりの文字が書かれた灯籠など、中津宮境内には随所に日露戦争に関わるものがあります。
第二次世界大戦・大島砲台
大島の北西に位置する瀬山には、4基の砲座と弾薬庫、観測所が残されています。
砲台は、下関要塞を構成する砲台の一つとして昭和10年(1935)5月に着工し、11年(1936)11月に竣工しました。昭和16年(1941)には、下関重砲兵連隊第6中隊の現役兵と召集兵の総数70人が担当していました。
砲座には、45式口径15cmカノン砲が設置され、日本本土と大陸を結ぶ海上航路を保護する目的で建設されました。
大島の文化
伝統行事
七夕祭り
中津宮では、旧暦の7月7日に近い、8月7日に七夕祭が行われています。織女社に向かって祭壇を設け、スイカや季節の野菜、魚などのお供えをします。祭壇の両脇には着物形の短冊を吊した笹を飾り、七夕踊りを踊ります。
大島は、日本における七夕伝説発祥の地といわれ、中津宮七夕祭は少なくとも鎌倉時代まで遡ることができます。
「正平年中行事(1346)」には「七月七日、七夕虫振神事」とあり、牽牛社、織女社に参籠し、水面に映る姿によって男女の縁を定めたと記されています。
沖津宮中津宮春季・秋季大祭
大島で年に2回開催される、中津宮、沖津宮の大祭です。沖津宮の祭典は遥拝所で斎行され、扉が開かれ巫女の舞が奉納されます。
沖津宮神迎え神事(沖津宮神璽奉遷祭)
10月1日のみあれ祭に先立ち、大島の住民が中心となって、例年9月中旬の天候が良い日に沖津宮の田心姫神を大島の中津宮にお迎えに上がります。これを沖津宮神迎え神事と言います。
前日には宮司以下3人の神職が大島に渡り、神様をお迎えする大島の御座船の船長らも参列して「渡島祈願祭」が行われます。神様を迎えする御座船に選ばれることはとても名誉なことで、宗像の数ある浦々の中でも大島の住民が必ず沖ノ島の神様をお迎えしています。
みあれ祭
みあれ祭とは、室町時代に行われていた御長手神事(みながてしんじ)を復興したもので、地元七浦の船団が集まって、大島の中津宮から本土の辺津宮へ沖津宮の田心姫神と中津宮の湍津姫神をお迎えする神事です。みあれ祭は秋季大祭初日の10月1日に行われます。「みあれ」には、沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神が年に一度お会いになり、新たな神として「御生まれ」になるという意味があります。
七夕伝説
概要
貝原益軒の『筑前国続風土記』には、中津宮で「7月1日から7日まで、牽牛社・七夕宮(織女社)にお籠もりし、河中に棚を結い、タライに水を張って男女の仲を占った」とロマンチックなお話が書かれています。
中津宮では、鎌倉時代には縁結びの風習や盛大な歌会が行われていたとされ、今に七夕伝説が語り継がれています。
伝説
遠い遠い昔に、ある貴族の若者が朝廷の命令で海を渡り、中国から数人の機織りの上手な女の人を連れて帰国する途中、その中のひとりに恋をします。やがて、役目を果たした若者は都に帰り、彼女たちは宗像大社辺津宮にあずけられました。若者は恋人を想ってわびしい日々を送っていたところ、ある夜、夢の中に宗像の神という天女があらわれ「宗像の中津宮に行きなさい」と告げます。
若者はお告げに従い、都での仕事をやめて、中津宮で神に仕える道を選びました。
ある星のきれいな夜のことでした。いつものように天の川でみそぎをしているとき、身にかける何杯目かの手桶の中をのぞいてみると、片時も忘れたことのないあの恋人が、今にも語りかけんばかりに水に映っているではありませんか。
それから七夕のころになると手桶の中に恋人の姿が映り、二人は時のたつのも忘れてだまって見つめ合い幸せなひとときをすごしました。そしていつしか、二人の姿は辺津宮と中津宮から見えなくなったそうです。
めでたく結ばれ、宗像の地のどこかに住んだとも、逆に結ばれぬままに、それぞれ遠いところに移り住んだとも言われました。
言い伝え
天候に関する言い伝え
天気は漁に大きく関係します。天気次第では、魚が獲れないだけでなく、命を落とすこともあリます。天気予報がないずっと昔、自然の変化から天気 を予測する知恵が生まれ、大島の人たちの間で代々受け継がれてきました。
・一つ雷は用心せよ。突風が吹く
・春、東風が息をするとき(吹いたり止んだりすること)は、後で強い風が吹く
・春の雨上がりは風が吹く
・対岸の陸地がすぼる(景色がかすむ様子)と雨が降るか風が吹く
・対岸の湯川山に雲がかかると明日は雨
・露が降りるのは北風の時に多く、降りると雨が近いか風が吹く
・霧がかかるときは凪、2~3日続く
・秋の夕焼けは天気。朝焼けは雨が多い
・満潮のときは南風、引き潮は北西か北風になる
・秋、西風が吹くと雨が降る
海に関する言い伝え
漁は危険と隣り合わせで、決まり事を守らなければ命を落としかねません。安全の次に豊漁。縁起担ぎやしきたリは大切なことです。自然への畏れや敬い、神への祈りや感謝から、様々な言い伝えが守り継がれています。
・包丁を海へ落としたら漁がない(魚が獲れない)
・海に落とした包丁が見つけられないときは龍宮様にお神酒と塩を供える
・漁で網を海に入れるとき、「トウエベスサマ」と言って投げ込む
・沖でカメを見たときは「エベスサマ」と言え(カメを見ると漁がない)
・海でヘビを見たり、ヘビの話を船の上でしたら漁がない
・船の上で口笛を吹いたら漁がない
・正月の17日と盆の17日に船にお供え物をするとき、取り舵(左)から乗って面舵(右)から降りる
・盆の16日に船に乗ると亡霊が引く
ことわざ
浦々の人々は、長い歴史の中で天候や潮流、魚介類の生態を知る学術もなかった頃から、経験により漁の技術を編み出してきました。そのことを裏付けるように、機器が発達した現在でも、経験による先人の知恵が現在まで「ことわざ」として伝承されています。
・ひとつドロン(雷)港を定め…雷が一つなれば強い雨が降るから避難港を決めておけ
・七九の風…旧正月から数えて7・9・63 日目に強風が吹くので、その頃を注意しろ
・正月の手の裏返し…旧暦2月は南東の風が強いだけに、北西の風は3倍強くなる
・彼岸のさめじけ…彼岸の入りじけは長続きしないが、さめじけは半月ぐらい続くこと
沖ノ島の忌詞(いみことば)
沖ノ島は神宿る島。その周辺の海で漁をする人たちの間では忌詞(不吉な意味を連想する語やその代わりに使う語)が使われていました。このことは、江戸時代の『筑前国続風土記』、『宗像神社縁起附録』、『沖津宮社格目録』などに記されていて、実際は明治時代の中頃まで使われていました。
-
生活小便:あまけ
大便:ごーや
岩・石:まりや
血・尿:あせ
柄杓(ひしゃく):きわまがり
箸:よろず -
食塩:なみのはな
味噌:ひしお
酢:みみとり
醤油:たまり
酒:ちんた
米:しゃり -
動物烏(からす):くろとり
牛:つののよつ(つきよつ)
狐:おながよつ
猿:かきよつ
猪:いのよつ
鹿:かのよつ
鼠:いなか -
その他死:くろようせい
僧:まるようせい
尼女(あま):かみながようせい
山伏(やまぶし):やまのようせい
由来
沖ノ島の忌詞(いみことば)には、食べ物などを言い換える語もあります。
例えば酒の「ちんた」はポルトガル語の赤ワイン、米の「しゃり」は舎利から派生した韓国の古語によるものです。
これらの言い換えは、室町時代にキリスト教布教のために日本とポルトガルなど西洋諸国との行き来があったこと、宗像大宮司家と朝鮮王朝との交流が盛んに行われたことが背景にあるという説があります。
食文化
-
トウヘイ鍋トウヘイは、ウナギ科の「クロアナゴ」で、秋から冬に脂がのって美味し<骨からスープをとり、キャベツなどと一緒に味噌仕立てでいただきます。
-
ベラそうめんベラは、ホシササノハベラのことで、 夏頃に脂がのって美味しい魚です。煮付けや背ごしで食ぺますが、煮付けの煮汁にそうめんをつける食べ方もあります。
-
甘夏大島は霜が降りないので、かんきつ類がとても美味しいです。なかでも甘夏は、初夏から夏が旬で、甘夏ゼリーも人気です。
-
がぜ味噌ウニをまるごと茄で、卵巣内臓を取り出し、味噌と砂糖を加えてていねいにすりおろしたものです。旧暦3月3日の桃の節句では焼いた菱餅に塗っていただきます。
-
びな夏の岩場で採れ、よく洗ってから茄でて食ぺます。炊いて食べたり、アルコール漬けにすることもあります。
-
おきゅうと6月、海岸で採れたおきゅうと草(エゴノリ)を「天日に干す・ 洗う」作業を草が白くなるまで繰り返して保存します。ほのかな磯の香りとつるりと した喉ごしが特徴です。
-
ウニごはんウニをご飯といっしょに炊き込んで食べます。彩りに細く切ったニンジンを入れたり、夏が旬のサザエもいっしょに炊き込むこともあります。
-
あかもく美容と健康によい植物繊維・フコイダンを豊富に含んでいます。そのままポン酢をかけて食べたり、味噌汁などの汁物に入れて食べます。
-
そうめんのり5月、6月に摘む、珍しいそうめんに似た海草です。熱湯にさっとくぐらせると鮮やかな縁色になります。ポン酢で食べたり、味噌汁や吸い物に入れて食べます。
大島八十八カ所千人参り
大島の春の訪れを告げる、「千人参り」は明治33年から始まりました。
毎年2日間(4月の第1週土・日)、島内に八十八カ所あるお地蔵さんを歩いて参ります。昔は千人参りと言われるくらい多くの参加者でにぎわっていたそうです。
大島には海の岩の上に立っているお地蔵さんもあり、その場合は潮が引いた時しかお参りできません。また、民家に建てられているものや、個人所有のものも多くあり、場所によってはお礼として御接待するところもあります。
山アロー(山童)
万延・文久年間(1860-1864年)頃から、明治中期にかけて大島に奇怪な動物が住んでいたと伝えられています。これを山アローと呼んできました。
動物の正体を総合すると、世間でいう河童そっくりで、近年これを見たというのは明治25年が大島での最後です。
春と夏は海に潜り、八朔(はっさく)の節句(旧暦八月一日)頃から山に入ります。オーという声を発し、これに化かされた人もあったといいます。そこで大島では、河童と呼ばずに「山童」という字を当てて、山アローと呼んでいます。
悪さをすると言われ、明治33年に八十八か所に地蔵を設置しました。子供たちは「悪いことをすると山アローにひっぱられるぞ」と言われました。
参考文献:大島村「大島村史 福岡県宗像郡」、1985年