歴史・文化
地形による地名
地名の由来
大島村は、明治二十二年四月一日、村制施行して誕生したものである。
村名は、古来の島名がそのまま付けられた。
大島の語源は、文字通り大きい島で、かつ宗像大社の中津宮があることにより尊称して「大いなる島」の意をこめた地名である。
浜千鳥こえうちわひて大島の
波のまもなく誰をこふらん
(飯尾宗祗『筑紫道記』)
出典:『福岡県地名考』
地名の由来
地名は、釣川の東にあることに由来。
出典:『宗像市史 通史編第三巻/近現代』
地名の由来
町名の由来は、同町が玄界灘に臨み玄海国定公園の中にあること、 関係町村で設立した総合立中学校が玄海中学校としてすでに広く一般に知られていること、 かつ公募した結果「玄海町」としたものが約九割を占めていたことなどから 新町名を玄海町と定めたものである(『玄海町誌』)。
出典:『福岡県地名考』
地名の由来
津屋崎(ツヤザキ)の語源は、『市町村名語源辞典』によると、ツエ(崩壊地形を表す語)・サキ(崎)が転じたもので、
断崖の岬のことか、渡半島の地形とよく合うとしている。
また、あるいは津屋は、文字通り港の施設のことかもしれないと述べている。
『津屋崎風土記』(田中香苗著)では次のように語源三説を紹介しているが、伝説の域をでない。
一つは、同町の産土神、波折神社の縁起によれば、神功皇后が三韓征伐から凱旋されたとき祭神の瀬織津姫大神と志賀大神が鼓島に現れ給うたので、
皇后は河原ヶ崎に祠を建てて祭りを行われた。
祭祀を終わり皇后が御杖を砂丘にさし、腰をおろしてお休みになった。
それで、この地を「杖さし」といい、それが津恵崎となり、後世、津屋崎と称するようになった。
二つは、いつの頃か、河原ヶ崎に木彫りの仏像が漂着したのを浦人が拾い上げ、祠を建て通夜をしてお祭りをしたことから、 この地を「通夜崎」といったものが、後に津屋崎と書くようになった。
三つは、いつの世のことか、漁夫三人が沖で釣りをしていたところ嵐にあい、一心に祈ったところ瀬織津姫大神、
住吉大神、志賀大神の三神が現れ、大波を鎮め、さらに飲食物をあたえてくれたので、漁夫三人はかろうじて海岸に帰りついた。
ふと見ると、船上に三つの石があったのでこの霊石を祀り、波折神と称した。神徳あらたかと遠近の人々が昼夜を分かたず御堂に籠もって祈った。
これよりこの地名を「通夜崎」と呼び、後に津屋崎となった。
出典:『福岡県地名考』
地名の由来
福間という町名は、西郷川の下流域、即ち現在のJR福間駅から西の海岸線までの地域を中世から「ふくま」と呼んでいたことからとった名前である。
福間(ふくま)の語源についてみると、古くは海岸の入り込んだ所や河川、山間の曲がって入り込んだ所を集落を含めてクマといった。 雑餉隈、大隈、月隈などの地名もそのクマ(隈)であって、宗像市の田熊もまた田隈の転化したものであろう。 福間は往古、西郷川下流域の海が深く入り込んだクマであり、農漁業の村であったと思われ、また蓑の生い茂った「蓑生の隈」であったろう。 『和名抄』の蓑生郷には美乃布と訓みが付してあり、「美乃布の隈」がつまって「布隈」、「ふくま」と変化し、「福間」となったと考えられている。 「ふくま」には福万、福満、福間の三通りの字が用いられているが、これはただの当て字である(『福間町史』)。
ちなみに、『市町村名語源辞典』(東京堂出版)では、「フケ(湿地の意)・マ(接尾語)の転じたもので、福間は砂州に囲まれた湿地のことか」としている。
出典:『福岡県地名考』
地名の由来
津屋崎奴山のライセンスセンターのあるところの小字は「まむし塚」、ほんとうにマムシがたくさんいました。 古墳発掘調査の際、捕らえられたマムシは確か四十数匹でした。
出典:『広報むなかた・文化財あれこれ/S63.4.15』
地名の由来
ムナカタという地名は、『宗像郡勢大鑑』という書物によると沼沢地に接する集落を意味しているという。
ムネ(高くなった所)・カタ(方)の転訛したものか、ヌマ(沼)・カタ・ガタ(潟)の転訛したものであろう。
「記紀」などの古い文献では胸肩、宗形、牟那加多と書かれており、中世以降に宗像と書かれるようになった。
『西海道風土記』逸文によれば、天照大神と素戔嗚尊の天安河原における誓約で誕生した宗像三女神(田心姫神、市杵嶋姫神、湍津姫神)の 降臨・鎮座に際して、その形代を奉祭したことから身の形、身の像と称し、これから宗像の名が起こったと伝えられている(『宗像市史』)。
出典:『福岡県地名考』
宗像という地名は、その地形が神体の胸肩に似ていることからによるといわれるように、歴史的にも古い由緒ある地名であり、・・・。
出典:『宗像市史 通史編第三巻/近現代』